雑記

文章練習

最近の日記

このはてなブログは更新はしていないが、わたしは目下努力継続中である。

 

学業もおろそかにせず、バイトも週一だがちゃんといき、プラスアルファ自分の向上のための行動を取れていると思う。

 

問題があるとすれば、自分のしたい勉強の時間が少ないということ、またあまりに色々なものに手をつけてしまい、個々の技術の向上スピードが遅くなってしまう、ということである。

 

しかし、これには言い訳させてほしい。

 

その1。わたしは主だってプログラミングの勉強をすることを念頭においているが、ネット有名人たちが口を揃えていうことには、挫折しないためには自分の興味のあることを行うこと、そして実際に作ってしまえばいい、らしい。

 

しかしながら、そもそもわたしを含めほとんどの初学者は、プログラミングを持って何ができるのかわからない。調べたとしても果たして自分の興味に即するのかを判別することは困難を極める。なんたってやったことがないのだからね。

 

そもそもそんなものがあるのだったら、とっくに取り掛かり、とっくにプログラミングという手段にたどり着いているわけで、(何が作れるのかわからないけどとりあえず)プログラミングできるようになりたい!という人間に向かって「興味」を求める方が文脈無視で間違っている。やりたいことのない人間に将来の夢を聞く破壊されるべき旧態依然の学校教育のような錯誤に陥っている。それならおまえはプログラミングに向いていない、大人しくハンバーガーでも作っていろ、と言ってくれた方がまだマシである。

 

よって一度は「わたしはプログラミングに向いていない人種である」と結論づけ撤退したものの、狂気の就活に直面したことにより、より真摯にプログラミングという現実逃避に向かわざるを得なくなってしまった。未だ興味というものにピンときていないが、なんとか見つけ出すしかない。

 

そこでわたしは、ゲームに着目しようとした。というか、それ以外は無理だった。WEBスクレイピング?クソほど興味もない。人工知能?自分のことすらわからない人間が人工知能に興味が持てると?少なくとも、初心者ができるようなくだらない機械学習には興味など持てるわけがあるまい。アプリ開発?これは、役に立つという前提があって初めてなるものだ。初心者用のゴミ教材で役に立たないごみを作ってどうエキサイトしろというのか、虚しさか?自分の虚しさを楽しむという新手の開発体験か?

 

そんなこんなで、ゲームだけはいい。これは、enjoyするためだけのものだ。作り手がenjoyしていれば、それはもはやゲームとして完成しているのだ。よって、初心者だろうがなんだろうが、ゲーム開発は楽しければそれで万事おけ!もはやこれしかない。

 

しかしながら、あまりに簡単すぎるものは、「これ、プログラミングする価値ある?そーいうツクールソフトで良くね」とか思ってしまったり、小学校の理科の実験教科書に全部結果書いているのに何が楽しいの現象が起きてしまうので、まあまあのクオリティを求めてしまう。

 

どうせ作るならいいものを、どうせ作るなら世に出したい、イメージするのは常に最強の自分。

 

ということで、イラストとかに手を出してしまうわけですね。

 

他人にイラストとかを依頼して、ゲーム制作してみる、とかが一番いいんでしょうけど、

金なし友達なしインキャにはきつい感じです。あーもーめんどいからこんな喋りで行くか。

それに、いきなりなんの開発経験のスキルのない(ついでに時間もそんなにない)謎人間がアプローチしてきたって怖いわけで。よって、やっぱ自分ひとりである程度やりたいなーとか思うわけですね。

 

まあーそのうちアプローチをかけたいですね。ネットでも必要と思う時に他人にアプローチをかけられない性分は、いずれ脱却したいですね。

 

理由その2。全ての技術は、繋がっているといえるのではないか?という仮定です。

ダヴィンチとかもそうじゃないですか。あんまりこう、区別するのもどうなのかな、ということです。逆に区別することで非効率的になるんじゃないか、という疑念もあります。

また、先の作りたいものを作れ論、その精神を最大拡張するとその時やりたいものをやりたいだけやればいいじゃないか、となるわけです。わたしはそれに従っているんです(無理矢理感)。

 

そんなこんなで、迷走しながらやっている、という日記でした。

 

 

 

 

 

前提知識も技術もない能無しは、何度も立ち上がることくらいしか武器がない

 ある分野において、この世に才能があると言えるのが10%だとしたら、能無しも同じ割合はいると考えて良いだろう。こういった私のような無能人間は、とにかくやり続けることくらいしか武器がない。

 効率的にできるというのは、才能があるものの特権だ。私も僭越ながら人より得意である分野については、周りの有象無象を見て、どうしてこんなに非効率なことをするのかとよく思うものである。対して、適正のない分野においては、なぜ周りは自分を差し置いて、こんなに早く成長するのだろうかと思うものだ。

 正しい方法で努力すれば夢は叶うなどという謳い文句は、じっさいは方便以外の何ものにならない。ある程度の正しい方法を見つけ出し、ある程度それを信頼できるというのは、紛れもなく才あるものの特権だ。90%の人間はそういうわけにはいかず、何が正しいのかわからないまま進むしかない。ましてや、10%の能無しにそれを期待できるだろうか。

 つまり能無しに許されたことは、決して立ち上がるのをやめないことくらいである。気持ちよく走らせてくれるなど、烏滸がましいにも程がある。努力は、天才には気持ち良かれども、能無しには辛く、儘ならぬものだ。そして、転ばないことも不可能だ。能無しは失敗をし続ける。しかも、同じ失敗を何度も何度も繰り返す。挫折は不可避、ならば、考えるべきは立ち直ること、それだけだ。

 立ち上がり続けること、それだけが能無しの私の武器だ。

 

大体3記事書けるかというのが自分のブレイクポイント

いつもブログを始めては、二日目くらいで「うそ、私の記事、意味ない?」と思い、次にこのブログは一生誰にも見られないだろうと思い、3記事目を投稿するまえにブログを消してしまう。

 

 

 

そんなことをもう何回も繰り返してきた。

何年も繰り返してきた。

 

そんな日常に終止符を打ちたい。

 

そんな人生に終止符を打ちたい。

 

自分だって継続ができる人間であるということを、自分自身で認めたい。

そんな3つ目の記事。

 

もし何かあって、一人でも、誰かの目に私の書いた記事が誰かの目に触れるようになったら。

私はこの記事を見て、ここでやめなくてよかった、と思うのだ。

もし何もなく、何年経っても、一人として私の書き物を見なかった、そんな結末になっても。

私はこの記事を見て、それでも頑張ったと胸を張るのだ。

 

ここでやめてしまったら。

自己満足すらできない。

 

そう、自己満足をするのだ。

 

自己満足するには、つまり、当たり前だが、自分が満足できるだけやらなければならない。

 

それは楽ではない。

心も辛い。

意味があるのかもわからない。

 

 

 

しかし、ここで終わっては。また、終わりにしてしまっては。

何もない。

何もない。

何もないが、また来る。

辛いことより恐ろしい、

死ぬことより恐ろしい、

何もないがまたきてしまう。

何もない中で、死んでしまう。

 

それだけは嫌だ、そう決心したのだ。

何もないのなかで、確実に何かを欲して、立ち上がったのだ。

まだ座りはしない。

自分を変えるなんて、大それたこと思っちゃいない。

ただ、走るだけ。

走れるだけ走って。

走れなくなったら、歩いて。

歩けなくなったら、貼って。

そうして、どうしようもなくなって、座り込むまで。

そうして振り返る景色が、みたい。

この四畳間の暗闇ではない、景色があるのだろうか。

あるのなら、どうか。

 

 

 

僕は、公開ボタンを押した。

 

 

 

 

 

 

いい文章をかくには、という持論

まず、狂っていなければならない。

まともな人間がまともに書いた文章など何の需要もない。そんなものは、雛形をそのままコピーすればいいのであり、なんの価値もない。何のバリューも産まないため、そんなものは書くだけ無駄である。

したがって、当たり前のことを書いてはいけない。心が震えないものは、どれだけ技巧をこらしてもつまらない。徹底して、心が震えるものを書かなければならない。

また、当たり前に書いてもいけない。そういうことはAIの得意分野であり、感情の処理に重きをおく人間の脳という特殊な計算機を使っている以上、そこらへんに転がっているテンプレート以下のものしか作成できない。「文章の書き方」を学ぶくらいなら、ネットの物を引っ張ってきてしまったほうがいい。合理的な文章の書き方は、邪魔にしかならないため、決して学んではならない。

文章とは、言うなれば手であり、表情である。私たちは演説を聞くとき、実は文章の中身にむける意識はたったの一割であり、演説家の声とか、表情、雰囲気に九割の意識を向けている。だから、どうでもいい文章の内容や構成などは捨てても、文章から醸し出す雰囲気だけは捨てるわけにはいかない。文章を書くというのはエンタメであり、エンタメであるからこそ強いパワーを発揮する。エンタメ性をどれだけ強められるかに、その文章の価値は左右される。何度も言うが、内容の合理性だとかは、コスパが悪いので無視して欲しい。

では、どうすればエンタメ性を強められるか。

これは、「論理的に考えないこと」に集約される。

何を書くか考える時にも、論理的に考えてはならない。実際に執筆するときも、徹底的に論理的に考えない。代わりに、感覚や感情で行う。

強く心を揺さぶられる言葉を私たちが発するとき、それは興奮しているときである。怒っててもいいし、ひどく喜んだりひどく落ち込んでてもいいが、とにかく論理的に考えていないその時に出た言葉は、強い臨場感を持っている。臨場感が強いと、伝わるパワーが強いため、最も効果的に相手に作用させることができる。有名な芸術家などは、このような感情、印象をそのまま絵に表したり、音楽に表すことができる。感受性の強いものなら、芸術家のこうした感情をそのままに感じることだろう。

私たちが目指すべきなのは、この領域である。文章を絵や音楽のように捉え、感情をそのままに表現することによって、読み手にも自分と同じレベルで感情を動かしてもらう。その過程に、合理的な決まりなどは邪魔にしかならないと言うことは、もはやわかってくれると思う。

そうすると、良い文章を書くと言うのは、いかに文章を書くかではなく、いかに伝えるものを洗練させるか、という話になる。自分自身が巨大な感情を抱くほど、読み手が抱く感情も大きなものになる。逆にいえば、書き手が常識の上にあぐらを書き、ありきたりな感情しか持ち得ないのならば、その文章はどこまでもつまらないものになるのである。この意味で、狂人であるべきなのである。

 

ここまでで、良い文章というのは実は感情的な文章で、文章構成や技巧などはむしろ邪魔になること、そして文章能力ではなく自分の感情を操作することがもっぱら重要だということがわかってもらえたと思う。

次の記事にて、この感情をどうやって増幅させるかの具体的な方法をご紹介したいと思う。

 

 

 

 

書初め

そもそもタイピング入力が苦手であり、文章もあまり得意でない。

そんな中愛用していたWindowsが洗濯機化し、これを機にMacに変えてみたところで、急に上達するわけもなく、仕様の変更に嘆く始末である。

もともと遅かった入力スピードは半分以下になった。勝手気ままな予測変換と、確定までが以上に短いために狙った変換をしてくれないフラストレーション。

タイピングなどせずとも高速でかつ正確に入力出来るデバイスがあればいいのだが、そんなものは現段階ではなく、仕方なく撃ち込み練習をするのだ。

仕方がないからタイピング練習をするとは言っても、実用的なレベルでの練習がしたい。寿司打ちは効果があったが、今度は、内容を即座に言語化しタイピングし、人が分かるまでのものを作り上げる制度を上げる。目標は異様に遅い作業スピードを上げ同時に脳を鍛えるのだから、こうでもしないと意味がないのだ。

そうして乱雑に文を羅列しても、もったいない。生産したのなら、市場にとりあえず出してしまったほうがよい。そのほうが経済的だ。

そこで、はてなブログだ。一切の金をかけず、成果物をおいていく。別に人に見せるための物ではないから、仔細を気にする必要は無い。

そう言ったブログもとい、思考のゴミ置き場となっている。

とりあえずこの文章は非常に出来が悪いため、いずれ消す。