雑記

文章練習

いい文章をかくには、という持論

まず、狂っていなければならない。

まともな人間がまともに書いた文章など何の需要もない。そんなものは、雛形をそのままコピーすればいいのであり、なんの価値もない。何のバリューも産まないため、そんなものは書くだけ無駄である。

したがって、当たり前のことを書いてはいけない。心が震えないものは、どれだけ技巧をこらしてもつまらない。徹底して、心が震えるものを書かなければならない。

また、当たり前に書いてもいけない。そういうことはAIの得意分野であり、感情の処理に重きをおく人間の脳という特殊な計算機を使っている以上、そこらへんに転がっているテンプレート以下のものしか作成できない。「文章の書き方」を学ぶくらいなら、ネットの物を引っ張ってきてしまったほうがいい。合理的な文章の書き方は、邪魔にしかならないため、決して学んではならない。

文章とは、言うなれば手であり、表情である。私たちは演説を聞くとき、実は文章の中身にむける意識はたったの一割であり、演説家の声とか、表情、雰囲気に九割の意識を向けている。だから、どうでもいい文章の内容や構成などは捨てても、文章から醸し出す雰囲気だけは捨てるわけにはいかない。文章を書くというのはエンタメであり、エンタメであるからこそ強いパワーを発揮する。エンタメ性をどれだけ強められるかに、その文章の価値は左右される。何度も言うが、内容の合理性だとかは、コスパが悪いので無視して欲しい。

では、どうすればエンタメ性を強められるか。

これは、「論理的に考えないこと」に集約される。

何を書くか考える時にも、論理的に考えてはならない。実際に執筆するときも、徹底的に論理的に考えない。代わりに、感覚や感情で行う。

強く心を揺さぶられる言葉を私たちが発するとき、それは興奮しているときである。怒っててもいいし、ひどく喜んだりひどく落ち込んでてもいいが、とにかく論理的に考えていないその時に出た言葉は、強い臨場感を持っている。臨場感が強いと、伝わるパワーが強いため、最も効果的に相手に作用させることができる。有名な芸術家などは、このような感情、印象をそのまま絵に表したり、音楽に表すことができる。感受性の強いものなら、芸術家のこうした感情をそのままに感じることだろう。

私たちが目指すべきなのは、この領域である。文章を絵や音楽のように捉え、感情をそのままに表現することによって、読み手にも自分と同じレベルで感情を動かしてもらう。その過程に、合理的な決まりなどは邪魔にしかならないと言うことは、もはやわかってくれると思う。

そうすると、良い文章を書くと言うのは、いかに文章を書くかではなく、いかに伝えるものを洗練させるか、という話になる。自分自身が巨大な感情を抱くほど、読み手が抱く感情も大きなものになる。逆にいえば、書き手が常識の上にあぐらを書き、ありきたりな感情しか持ち得ないのならば、その文章はどこまでもつまらないものになるのである。この意味で、狂人であるべきなのである。

 

ここまでで、良い文章というのは実は感情的な文章で、文章構成や技巧などはむしろ邪魔になること、そして文章能力ではなく自分の感情を操作することがもっぱら重要だということがわかってもらえたと思う。

次の記事にて、この感情をどうやって増幅させるかの具体的な方法をご紹介したいと思う。